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 ふ、と意識が戻った。私は永い間ずっと深い眠りについていたことを思い出す。
 どのくらいの間眠っていたのだろうか。いや、どのくらい眠っていたかなど、どうでも良い。もうあの時は戻って来ないのだから。
 ただもう少しだけ、まどろんでいたかった。重い瞼を無理矢理開ける必要はない。だから、まだ寝かせてはくれぬか。
 私は目覚めたくない。出来ることならずっと、永久に。
 それなのに。ああ、私を喚ぶ声がする。遠い世界から響いてくる、私の身体を揺さぶる声。起きろ起きろと揺さぶり続ける。
 どうか止めてくれないか。もうそこには行きたくないのだ。再びその地に足を踏み入れてしまったが最後、私はもう――。
 分かった、分かったから。行けば良いのだろう。
 そう、行くしかないのだ。この声に逆らえないことは分かっている。それでも私はまどろむことによって意味のない抵抗を続けていた。
 ああしかし、やはりというべきか、まどろんでいることにも限界が来たようだった。もう腹を括って行くしかあるまい。
 重い瞼を無理矢理開く。目の前には果てしない闇が広がっていた。瞼を閉じていた時と、まるで変わらない。
 軋む身体を立たせ、前足で踏ん張り大きく伸びをする。ふあ、と欠伸がもれた。身体を動かすのは実に久し振りである。自慢の尻尾を一振りすると、長く艶やかな黒毛が波打つ音がした。
 いざ、行かん。私は大きく息を吸う。それから、

***

「きゃあぁ、あ?」
 少女は二三歩よろめいて尻餅をついた。その両目は大きく見開かれている。
 ちょっとした遊び心だった。神社の隅にある小さな祠の、札を剥したのは。
 何もないと思っていた。祠とか札とか、そういう物は人間が人間を騙すために作られた物で、本当に何かがいるから作られた物だなんて、少女はこれっぽっちも信じていなかった。
 それなのに、これは現実なのだろうか。少女の目の前には黒い毛に包まれた獣がいた。ピンと尖った耳、むき出された鋭い牙、力強く地を踏み締める四肢、長く太い尻尾。それは まるで、尋常でないほど大きな狼だった。
「貴様、この私に何の用だ」
 獣から静かな低い声が響いてきた。少女は飛び上がってその場に正座する。黒い制服のスカートの裾は土で汚れてしまっていた。
「何の用だ」
 今度はウウウ……と唸る声と共に響いてくる言葉。機嫌がかなり悪いようだった。
 これ以上怒らせたら喰われる。少女は咄嗟にそう思った。だから、用をでっち上げた。
「あの、その、貴方を助けたいと思って」
「ふざけるな。私は助けなど要らぬ」
 唸り声が大きくなった。
「ひっ。すみませんでもどうすれば……」
「そんな用で呼ばれたとは、とんだ茶番だ。私を元の場所に戻せ」
「え……あ、はい」
 そう答えたあとで少女ははたと考える。どうやって、戻すのだろうか。握り締めていた札をそっと見やる。これは、きっと、封印のために貼ってあったものだろう。じゃあ戻すのはどうすれば。
「まさか貴様!」
「はいぃ!」
 獣がずいっと顔を少女に近付ける。荒い息が少女の身体に掛かった。獣の臭いが少女の鼻をつく。
「ごめんなさいごめんなさいつい出来心で、剥がしました分かんないんです戻し方許して下さいごめんなさい」
 必死で謝る少女。目の前で大きなため息を吐く狼。少女の制服がはためいた。
「やはりな。では私を助けるというのも嘘だな」
「はい、はいっ!嘘なんです!放課後暇だったんです!せめて命だけは!」
「……私は召喚した者を喰うことは出来ぬ」
 獣は顔を逸して諦めたように呟いた。疲れた顔でその場に座り込む。そしてそれきり空を見上げて黙っていた。
 空はもう赤く染まっていた。横長の雲が幾重にも重なり赤い空で黄色にほんのり輝いている。
 冬になったなあと少女は思う。いつもより日が早く落ちてゆく気がした。夜は冷え込むだろうか。マフラーを持ってくれば良かったと少し後悔した。 そういえば、明日提出のレポートをまだやっていなかった。それから明日は漢字の小テストもある。早く家に帰らないと。
「貴様、今はいつだ」
 空を見たままの獣から発せられた、突然の問い。少女は目の前の現実に引き戻された。
 そう、そうなのだ。今少女の目の前には大きな黒い獣がいるのだ。
 この状況を一体どうすれば良いのか少女には分からない。そもそも、これが現実なのかも分からない。
 どうすれば良いのか、これは現実なのか、誰でも良いから答えて欲しかった。
「答えろ人間」
 やはり空を見たまま呟くように問う獣。さっきまでの唸り声も聞こえなくなっている。
 どうしてだろう。少女と同じように獣もこの状況に混乱しているのだろうか。少女は獣の態度の変化に戸惑いながらも答える。
「今日は十一月十七日です」
「年号はいつだ。慶応か」
 獣がピンと耳を立てて少女の方を向いた。
「け、慶応? 今は平成です」
「そうか。慶応から何年経ったのだ」
「何年でしょう……?」
 慶応とはいつの年号だっただろう。確か、江戸時代だったはず。でもそれ以上は分からない。
 少女は焦る。このまま答えが出なければ、鋭い牙で噛み付かれるかもしれない。殺されないにしても、大怪我を負うかもしれない。
 冷や汗をかきかき、必死に獣の望む答えを探す。歴史をしっかり勉強していればと、この時初めて思った。
「えと、あの、何百年か経ってると、思い、ます。多分」
「何百だと」
「あう。何十年かもしれません!」
「どちらなのだ」
「わ、分かりません。歴史の授業は寝てたので!」
「レキシノジュギョウ。なんだそれは」
「歴史を学ぶ授業のことです!ごめんなさい!」
「それでは説明になっていないではないか」
「すみません!先生に歴史を学ぶんです授業で!」
「……まあ良い。学ばねばならぬ程、時が経ったということだろう」
 獣は追及するのを諦めたようだ。涙ぐんで必死に答える少女に少し呆れたようでもあった。
 少女はここぞとばかりに何度も頷いてみせる。それを見た獣はフンと鼻を鳴らして立ち上がった。
「行くぞ」
「へ?」
 獣から響いてきた威圧的な言葉に少女はきょとんとする。
「私の背に乗れ。さもなくば咥えるぞ」
「乗らせていただきます!」
 少女はもう泣く寸前である。
 獣の背にまたがろうとするが、立ち上がると少女の身長程もある背に、少女がまたがれるはずもなかった。少女は困って獣に話し掛ける。
「あのう、」
「なんだ」
「背中に届きません」
 獣は黙ってその場に伏せた。獣の背に乗った少女は空を飛んでいた。やはり、ただの獣ではなかったようだ。
 すっかり日が落ちて、辺りはもう真っ暗だった。ネオンと街灯に気圧されて、空の遠くの方で星が控え目に瞬いていた。
 眼下にはいつも歩き回っている町並みが広がっていて、何だか夢を見ているような、そんな心地になってきた。
 少女は獣の黒い毛をぎゅっと掴む。艶やかでとても触り心地が良かった。それにとても暖かかった。少し獣臭いのが難点であったが。
「貴様、ここはどこだ」
「とうきょ、江戸です」
「江戸か。何だ、この変わり様は」
「ごめんなさい」
「謝る事でもあるまい」
 獣は尻尾をバサリと振った。それから呟くように言う声が、少女の耳にかすかに響いた。
「これでは、約束が果たせないな」
 少女は思わず聞き返す。
「約束?」
 獣の身体が動揺したようにふらつく。落ちないよう少女は獣にしがみついた。
 獣は耳を寝かせて声を響かせる。
「貴様には関係無い」
「ないって、」
 言い掛けて確かに関係がない事に気付く。その代わり別の事が気になってきた。
「貴様貴様って、さっきからわたしの事言うけど、わたしにはちゃんと名前があります」
「ほう」
「美里です。ちゃんと美里って呼んで下さい」
「断る」
 即答だった。
「……じゃ、じゃあ貴方の名前はなんて?」
「貴様に言う必要は無い」
「ありますっ。わたしを変な場所に連れ込もうとしてるんですから」
「妙な言い方をするな。特に行く場所など無い」
「じゃあ神社に帰らして下さいよ」
「我慢しろ。私は貴様から離れられぬのだ。それにそもそも、貴様が私を戻せないのが悪いのではないか」
「う」
 痛い所を突かれて少女は口ごもる。しかし度重なる現実離れした出来事を経験して、肝が据わってきた少女は更に言葉を重ねた。
「でも名前は必要あるんです。名前呼び合うと仲良くなれるんですよ?」
「貴様と仲良くするなど気色悪いわ」
「じゃあ呼ばないから名前教えて下さい」
「五月蠅い奴め。教えぬと言ったら教えぬのだ」
 獣はフンと横を向く。少女には獣が何だか可愛く見えてきた。悪戯心が芽生えてくる。
「じゃあさ、美里お姉さんが約束果たすの手伝ってあ・げ・る」
「……狂ったか」
「違いますっ。ふざけただけですっ」
「もう黙っていろ」
 ウウ……と小さく唸り声が聞こえた。やり過ぎたようだ。少女は大人しく黙った。
 いつの間にか、濃い闇が広がっていた。どうやら山地に来たようだ。見慣れたネオンも街灯もない。都会よりずっと多い星が少女の頭上で輝いていたが、あまりの暗さにびっくりしていた少女には楽しむ余裕がないのだった。 少女は獣にぎゅっと抱き付く。黒い獣に黒い夜。良く似合っている気がした。
「私は、影のようなものなのだ」
 静かに獣は語り出した。
「影はいつも睨まれる。こうして動けるようになった今も約束を果たすことも出来ぬ。きっと今頃、奴は怒っているだろうな」
「奴?」
「奴は私を召喚した。されど奴が召喚したかったのは私ではなかったのだ」
 獣は低く笑った。哀しそうな笑い声が暗闇に響く。
「奴はその事に気付いた時にはもう、手遅れだった。私はもう成長し切っていたからな。奴は困った、そして私を封印したのだ」
「はい」
「私は約束したというのに。私が約束を破れるわけが無かろう。私は召喚した者に絶対服従であるということを忘れたか」
「絶対服従……」
「そうだ、無理矢理にでも私は約束を果たそうと思っていた。されど奴は、」
「命令、三回周ってワン」
 少女の声を聞いて、突然獣は空中で止まった。その場で三回くるくると周る。そして一回吠えた。
「わあ、本当ですね」
 少女は両手をポンと合わせて微笑む。
「貴様あ!」
「わたし哀しい話は嫌いなんです」
 怒った獣に微笑みながら話し掛ける。ゆっくりと獣の黒い毛を撫でた。
「わたしは貴方が話した過去が半分も分かりませんでしたけど、今分かる事だけ教えてあげます」
 獣は唸り声を響かせる。
「その方はもう、生きていません。その方はもう、貴方の主人じゃありません」
 少女は一際にっこりとした。
「わたしが今の貴方の主人です。貴方はわたしに服従するんです」
「何を言い出すかと思えば……」
「命令、貴方の名前はクロガネです。命令、わたしの名前をちゃんと呼びなさい」
「この、にんげ……美里め。ここから振り落としてやろうか」
 獣は左右に激しく身体を振った。少女は獣にしがみついて言う。
「クロガネ。さあ約束を果たしにいきましょうか」
「どういう意味だ」
 獣の揺れがぴたりと止まる。少女は手を伸ばし、獣の頭を撫でて言った。
「一匹では果たせない約束も、一匹と一人なら果たせるかもしれませんよ?」
 獣は大きく息を吐いた。耳を寝かせて尻尾をだらりと下げる。
「身勝手で、傲慢で、これだから人間は」
「ごめんなさい。嘘ではなくて本当に、貴方を助けたくなってしまって」
 獣の背の上で少女はペコリと頭を下げた。
「でも、多分、過去に縛られたままでは、いけないんです」
 独り事のように少女は言葉を紡ぐ。
「だって貴方は今、ここで、生きていますから」

***

「ねえクロガネ。もしあの時、わたしが一緒に約束を果たしに行こうって言ってなかったら、どうなってたんですか」
「……知らぬ」
「嘘吐かないで下さいっ。わざわざわたしを連れて山奥まで行ったって事は何かあるでしょう」
「……知らぬと言ったら知らぬのだ」
「あーそんな事言うんですか? 命令、町内逆立ちしながらいっしゅ――」
「だあああ!私は自ら命を絶つつもりだったのだ!最初は約束の地に行くつもりだったが、探せそうも無いと分かって死ぬつもりだったのだ!」
「えぇー。それじゃクロガネが死んだあと、わたしはどうするつもりだったんですか?」
「クラミドモナスにでも喰われてしまえ」
「はい? どういう意味ですかそれ。今日覚えた単語適当に使って誤魔化すなんて酷いです」
「クラミンと略すそうだ」
「命令、町内逆立ちし――」
「あとは野となれ山となれ!と思った!私が死んだら制約も何もないからな。美里はきっと寒さで眠るようにし、んで」
「命令町内逆立ちして百周!いってらっしゃい」
「おのれえええぇぇ」

お題は『永眠・クラミン・レム睡眠』
2009/11/26 作

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